佛教教育的机遇与挑战
2009年03月29日 12:52 】 【打印已有评论0

■大谷大学の教育理念

佛教が、我々の人生观や世界观の核心になり得なくなっている现在、日本人は生きる上での根拠を丧失し、そのために生活の全般にわたって何か空虚なものを感じながら生きている。それはかつての日本で行なわれていたような佛教教育が彻底していないからであり、今もって佛教が世间に开放されていない证左でもある。

我々の大谷大学では、佛教の世界への开放を目指している。本学の初代学长の清泽满之(1863-1903)は、本学の‘建学の精神’を明确にした“开校の辞”において‘我々において最大事件なる自己の信念の确立の上に、その信仰を他に伝える、即ち、自信教人信の诚を尽くすべき人物を养成する’と宣言している。本学の教育は、他の学校とは异なり‘自信教人信の诚を尽くすべき人物の养成’を目标とするものである。

佛教における‘信’には‘自信’という意味が含まれている。それは自分の知性でもって自分のことを知るというようなことではなく、自分が生かされて生きていることを、その‘根本’において自觉することである。自分を生かしている如来のはたらきが实际に感得されることである。自己が、如来のはたらきを知ることが‘如来に出遇う’‘本愿に出会う’ということである。それは、自分が、生かされているものとして自觉することである。より正确にいえば、自觉せしめられて自觉するということである。このような人间の自觉は、现代文化の主流である科学の立场からは决して生まれてこない。自己の‘外’に人间を対象的に观察する科学の立场では、自己自身の‘内’に人间の本源を自觉することはできない。人间が人间として‘生きている’ことは、何处までも生かされて生きているということが知らされてはじめて明确になるのである。ここに佛教教育の重要な课题がある。

■ むすびに ―佛教教育と佛教の未来

佛教教育に限らず‘教师’というものは、他を教えるということに依って自分が教えられるのである。教えることによって教えられた自分が、更に他を教える。そのような‘自信教人信’の循环に立つ者が‘教师’である。教育に关わる者には、このような宗教的な人间观、世界观が确保されていなくてはならない。ところが、日本の多くの大学では专门的教育と称し、特殊な技能や知识を教授することのみが行なわれている。そのような教育からは、人间として立派な‘人物’を育てるということが中心ではなくなる。

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作者: 木村宣彰   编辑: 栓子