佛教教育のチャンスとチャレンジについて
木村宣彰
大谷大学长
■はじめに ―问题の所在
现代という时代は、世界的に‘人间’自体が问题となっている。人间が、人间自身にとって疑问符となって问题化している。现代の社会では、人间自身が自らを见定められなくなりつつある。すなわち‘人间とは何か’、‘人间の分限とは何か’、‘人间としてどう生きたらよいのか’ということが、现代人にとって甚だしく不确实になっている。自分で自分自身が分からなくなってきたのが、现代社会における人间问题の新たな样相である。
现代社会の特色は、何よりも‘科学的’な似值观が重视され、宗教不在の社会になりつつあることである。宗教による人间教育が社会から欠落し、その欠けた部分に自然科学に代表される科学的な见方や考え方が入り込んでいる。观察や实验などの科学的方法によって人间に关する知识は增大したが、それらは人间の部分に关する断片的知识である。その知识の统一性を保つことが困难になっている。人间一般に关する知识は确かに增大したが、その反面、自分自身のことが分かなくなっている。これが今日の世界における人间问题の现状である。
■佛教教育のチャンス
科学的な立场は、物事を‘外’から观察するところに特质がある。人间の分限についても‘内’なる心の问题として捉えることよりも、人间を取り卷く‘外’の生活环境を便利に效率よく快适にすることを追求するのが科学技术である。しかも、それが‘合理的’なことであり、その实现に役立つ人间を‘人材’として扱っている。
日本の多くの大学では、人间を人间として立派な‘人物’として育てることよりも、社会の一机能として役立つ‘人材’に育てることを目指している。これは、人间を人间としでなく、目的を实现するための手段として扱っているのであり、人间の机械化、非人间化である。现代社会のあらゆる面で、人间性を丧失し人间不在の相貌が次第に显着になりつつある。そのことは谁の目にも明かであるのに、逆にそのことが问题にならないところが最も重大な问题である。
このような日本社会の现状は、人间が、人间自身を见失い、人间らしく生きることができず、ついには人间とは何かが分からなくなっている。人间らしい人间ならば、自分が机械と同じように扱われていることが分かれば、人间として生きていることの感动や感激を失ってしまう。自分が、机械よりも优れた动きをしていると评似されても、人间的な人间なら决して喜ぶことはできない。自分が、人间でなく机械のように扱われていると知る自己と、现に机械のように机能している自己との间には必ず自己分裂が生じる。
最近の日本社会における青少年による奇妙で悲惨な事件は、このような自己分裂の情况から生じていると言ってもよい。このような时代にこそ、人间の‘心’を育てる教育が必要になる。ここに、‘心’を育てる教育、すなわち佛教教育のチャンスとチャレンジという课题が生まれる。
作者:
木村宣彰
编辑:
栓子
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